福井県坂井市のJR丸岡駅近く、越前平野を潤す十郷用水に、60年以上経過した現在でも県道として共用され続けている橋がある。 その橋の名は“十郷橋(じゅうごうばし)”、昭和28年(1953年)6月に建設された我が国初のポストテンション方式によるプレストレスト・コンクリート橋、通称「PC橋」である。
当初、十郷用水には木製の橋が架けられていたが、水害により流失したため災害に強い橋が求められていた。そこで福井県はピアノ線(PC鋼線)とコンクリートを組み合わせた、前例のないPC橋を採用した。設計はフランスフレシネー社の派遣技師「セルジュ・コバニコ」氏の手で行われ、施工は敦賀ピー・エス・コンクリート(現在の日本ピーエス)が行った。
十郷橋の成功により、大スパンを可能としたポストテンション方式によるPC橋の技術が確立され、一気に日本中にPC橋が建設されていった。
住所:福井県坂井市坂井町 JR丸岡駅より、東へ約200m 北陸自動車道 丸岡ICより約6km
鉄量1/5、コンクリート量1/2でつくる軽量・高強度の橋梁
福井県坂井市坂井町に、橋長8メートル弱の十郷橋という橋がある。竣工は昭和28年。戦後の復興と福井震災(昭和23年発生、マグニチュード7.1)からの復興が進展する時代であった。
橋自体は大きなものではないが、その建設は、日本全体の架橋工事において、大きなターニングポイントとなったのだった。
こんな丈夫なコンクリートは見たことがない...その驚きは、すぐさま、物作りの好奇心に変わった。
昭和26年のある日、東日本重工(三菱重工)七尾造船所の敦賀工作部工場長、後藤文次郎は、敦賀海陸運輸株式会社を訪れ、社長の有馬義夫に面会を求めた。後藤は一枚のコンクリート製の板を持参していた。有馬は、その板に目を奪われた。弾力があり大人が乗ってもびくともしない強力なコンクリート板であった。有馬は大いに興味を抱き、近くにいた社員を呼び、「どうだい、こんなに丈夫なコンクリート板ができたそうだ」と、驚きの感想をもらしたという。十郷橋の建設には、それに先行するこうした新部材との「出会い」のドキュメントがあったのだ。後藤は、その時、七尾造船所が閉所するにあたり、七尾で作り始めた製品を引き継ぐべく、企業化の協力要請が目的だった。
そして、昭和27年4月1日、株式会社日本ピーエスが敦賀に産声を上げた。有馬義夫以下18名による挑戦へのスタートだった。当時、プレストレスト(略ピーエス)コンクリートに対する土木建設業界の認識が広まりつつあったが、まだまだ製品特性や用途、優秀性の啓蒙等が必要な時代であった。有馬義夫の眼は、正確に時代の一歩先を読んでいたと言っても過言ではないだろう。
創立時の技術者・社員とフランス人特派技士
緊張作業の様子
従来の鉄筋コンクリートとは異なり、ピアノ線を使った新部材を、我が国で初めて実用化した橋梁架設。
ピーエスコンクリートは、フランスのフレシネー氏が特許所有しているため、新会社では、特許権を持つ会社の指定工場となり、技術指導を受け、着々と優れた製品づくりへの基礎固めを急いだ。
昭和28年、日本ピーエスは、大口施工依頼の第1号として、旧坂井郡東十郷村十郷橋の上部工事を受注した。使う部材は、従来の鉄筋コンクリートに比べ、鉄量で5分の1から6分の1、コンクリート量2分の1で同一の強度を得る画期的な新部材。日本ピーエスの工場で強度テストが繰り返し行われ、技術者たちが全てに満足できる製品づくりと施工技術の習得に全力を注いだ。
指導には、フランスから特派技士セルジュ・コバニコ氏を招聘。そして、架設工事が始まった。我が国初のポストテンション工法による工事は、広く業界の注目を集め、この橋の施工を機に、ピーエスコンクリートとポストテンション工法への認識と期待は、急速に加速していった。
同年6月、十郷橋が完成。この実績は、ピーエスコンクリート製品メーカーおよび、同工法施工者としての日本ピーエスに対する認識と、関心をおおいに高める結果となった。そして、十郷橋で用いられた工法が、それ以降の日本の橋梁建設の本流になっていった。また、橋梁だけでなく、その後の研究開発によって、ビル建設をはじめ、大型構造物に必要不可欠な工法へと発展し、現代の安全安心な社会基盤づくりに大きく貢献するものとなっている。
グラウト注入作業の様子
架設作業の様子
平安時代に開削され、千年の間、大地を潤し線ける十郷用水
十郷用水は、坂井市丸岡町鳴鹿で九頭竜川から取水し、全長28Kmに渡り一大穀倉地帯の坂井平野を潤す、人工の水路である。
その歴史は古く、千年ほど前の平安末期にまでさかのぼる。当時、坂井平野には、多くの荘園が存在していた。春日社興福寺所領の荘園であった十カ村(郷)へ水を引くために、十郷用水が開削されたと伝わる。
伝説では、水不足に悩む春日社の神主が夢のお告げを受け、九頭竜川上流へ行くと、鹿が現れ導くように進んだ。その道程の通りに、水路を七里に渡り開削したのが十郷用水とされる。
九頭竜川に設けられた堰は、戦後の科学的調査で、もっとも理に叶う場所はここしかないという結果が出たという。神のお告げとはいえ、現代のような測量機器や重機のない昔に、難工事を成し遂げた当時の技術力、そして、人の叡智の素晴らしさに感動を覚えずにはいられない。近年、パイプライン化が進められるなか、千年の歴史をもつ遺産として、一部だけでも残し、後世に伝えようという声も多い。
十郷用水、そして、日本初の工法で建設された十郷橋は、困難を乗り越え到達点を目指すフロンティア精神を、現代の私たちに、語りかけてくる場所である。
現在の十郷橋
健全性調査の様子